J 「生きた信心の喜び。合楽世界。」

昭和五十七年二月二十五日 朝の御理解

x御理解 第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、           三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と           言むれるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心し           て身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打           たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐           ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど           大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断を           すな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」


 昨日は大和さんところの謝恩祭、恒例の謝恩祭でございましたが、もう、いよいよお祭りも、ま、充実して素晴らしいお祭りで、又、素晴らしい雰囲気の中におかげを頂きました。終わって、私の話を皆さんに聞いて頂いた中に、どうした事からだったでしょうか、私は急に四神様と中村駒之介という江戸歌舞伎の、その当時名優と言われた人の話をお話の中にさせて頂いたんですけど、どういうところだったか、私は、ちょっと今、そのきっかけを忘れましたけれども、例えば、今日の御理解の中にあります、天は高いから頭を打つ事はあるまいと思うけれど、ね、天で頭を打つのが一番怖い、恐ろしいというふうに教えておられます。
 まあ、それが、この事に当たるんだなと今日も改めて思うておるんでございますが或る、旅興行の時に、宇都宮の釣り天井と、宇都宮騒動のお芝居を、やっぱ岡山でしょうね、かけられておる時に、その、小屋にずっとこう綱を張ってね、その、綱渡り綱渡りか何か宙ずりかのその演技があるそうです。
 その時にその綱が切れてね、落ちて、もう、一命を、もうむつかしかろうというような状態を、四神様のお取次で、不思議に助かられてそれからもう、いよいよ金光様に傾倒し、役者も退めてそして本部の方に、居を移されましてね、住まいを、そしてもう、四神様のまあ、御用を身近な御用をなされたそうですが、もう、それこそ、四神様の御寵愛を一心に受けておる人はこの人だろうというように、ま、御寵愛を受けた方らしいんですね。
 ところが、四神様がお亡くなりになられると同時から、信心がガタッと落ちてしまわれた。或る時、小倉の桂先生が御本部参拝の時に、その岡本駒之介、芸名は中村駒之介という、その方の前を通りになると、神様から「寄ってやれ」というようなお知らせを頂かれて寄りました。ところが、まあ、それこそ、素晴らしい優雅な生活をしておられて、それこそ、紫檀、黒檀の家具茶棚を後ろにして、長火鉢の前で玉露をすすておられるところであったというのです。
 もう、それこそ大変なおかげを受けておられた方、そいであのう、とにかくあれほどの信心をなさっておった方だから、まあ、御信心をなされなければいけないというような事を、ま、いろいろお話になったけれども、それを耳に入れられなかった。
 聞こうとなされなかったという事。で、その事をいわゆる当時の三代金光様、まだお若い時ですよねえ、四神様が亡くなられたあとですから、それであのう、三代金光様に「世の中にはもう後から津波がきて一飲みに呑まれるような状態にあっても、気がつかない氏子がございますなあ」と言うて申しあげた時に、金光様がおっしゃったそうですねえ。「ああ、あの氏子か、あの氏子はもう駄目じゃ」とおっしゃったそうです、ね。
 私はね、本当にその、神様からもう、いうなら見離されたらもうおしまいですよねどんなにおかげを受けておってもね。それは、ほんにそうそう、私は夕べその事を信心はとにかく、喜びを育てる事なんだ、生きた喜びであれば必ず生涯、この生きた喜びというのは育つという事を、いう事の為にその話しをしたんだったでしょうかね。 したら、今日の御理解にねその、天で頭を打つという事はあるまいと思うけれどもね、天で頭を打つのが一番怖いと、いうならば、ああ、あの氏子か、あの氏子はもうつまらんと言われるような事になってはその後がね。あの、取次ぎ、沢山な、ま、預金を、お金を持っておられた方だそうですけども、そういう銀行が倒産した、倒れたんです。それから新たに、お道の教師まで志そうとなさった。そして、朝鮮に布教に出ろうという手配もでけたんだそうですけれども、何かの都合で次々といわゆる、そのはずれてとうとう布教にも出られなくなられたとね。晩年は大変哀れな事であったというお話しを私共聞いております。それこそ、慢心が出るとおかげを落とすぞ、とか天で頭を打つ事はあるまいと思うけれど、と。けど天で頭を打つのか一番恐ろしい、というのはそういう事じゃないでしょうかね
 昨日、あちらでお祭りの御神前に座った途端に頂きましたのは、z緋鯉真鯉が、こう交互しながら、こちら向きとあっち向きと両方にこうして泳いでおるところを頂きましてね、そして、あのう『この鯉成就に相成るよう』でしたかね、そうやったね この鯉(恋)成就に相成るようといお言葉を頂いたんです。で、勿論その鯉とはお徳とも言われますけども、これは、恋愛の恋だと思うんですね。ですから、どうぞ、この恋成就に相成りますようにと、いうなら、これは氏子の方からでしょうけれども神様が願っておられるという感じですね。
 昨日も、ま、申しました事ですけれども、例えば、大和さんの信心というのは、もう、何ていうか、実意丁寧というか、それこそ黙々として信心を、しかも御夫婦で進めていかれる。もう、本当にいつのまにか何とはなしに、全ての点におかげを受けて行っておられるわけですよね。もう、本当にあのう、いうならば、この人の信心に、ちょっと非の打ちどころのないという感じがする、というてまあ話した事ですけれども、これは私の見方であってね、神様がご覧になり、又は自分自身が自分の信心を思うてみる時に、これですんだとは思わんという事になるわけでしょうけれども、そういう、いうなら、良い信心を身につけておられていかれるのですから、神様が目をつけなさらんはずはないわけです、ね。
 私は、特にそのお話しさせて頂きながら、思ったんですけれども、ならここでお道の教師にでもお取立頂いておるという人達の場合なんかは、もう、いうならば、ね、神様に、まあ、いうならば一目惚れされた人達ばっかりだと思いますね。
 合楽で、いうなら総代幹部と、いうなら毎朝、朝の御祈念でも参らにゃおれないという人達の場合なんかは、そういう神様の願いがかけられておる人達だと思うですね ですから、そういう神様の願いに応えようとはせずに、只、自分の我情の為、我欲の為に日参がどれだけ続いても、なら、おかげがどんなに受けても、中村駒之介さんじゃないけれども、おかげは最高に頂かれても、喜びが育っていかない、とするならね、その、なら、喜びとはどういう事かというと、ね、いうならば、神様と氏子の間に通わされる一つの情感、それは恋愛感情にも似たような、とにかく合楽なしには生きられん。一日でも合楽にお参りしなければおられない。そういうような神様も、この恋成就に相成るようにとおっしゃっておられるのですから、私共も、又、この恋成就に相成りますよにといったようなです、願いが出来た時にはじめて、合楽しあえる世界、合楽世界に住む事が出来る。
 合楽世界への、いうならば、神様の願いというものが、そこにありというふうに思うんですね。だから、お互いの信心がです、神様からそういうように願われておる。 自分達もです、やはりそういう願いに立っていかなければならない、ね。この、恋成就に相成りますようにと。
 神様とのいうならば、天地一如の世界をめざさなけれはならんという事になりますよね。おかげを頂き、本当に有り難い、勿体ない。御用せずにはおられない、で、まあ、おかげを頂くからそうであったりね。
 只、神様からでけの御寵愛を受けておるというだけではなくて、ね、自分自身の心も、神様へ向かわなければ、神様へ向かうという事は、いよいよ生きた信心の喜びがいよいよ止むに止まれん思いで育っていくという事、ね。
 一昨日、月次祭のお話しの中に、名古屋の森さんのお話しを致しました。もう、それこそ、合楽理念に基づく、長年それこそまあ、探し求めておった金光教の真の信心が此処にあったと。そして合楽理念に傾倒しだしたら、もう、とにかく信心生活がゴロッと変わった。もう、それこそ、素晴らしいタイミングの中に、日々信心のおかげを頂き神様を身近に感ずる事が出来るようになったが、はたしてね、このおかげをですね、こりゃ、どうしたらよかろうかという思いに至られたという事。
 私はこの思いが至らなければ、神様との接近は出来ないと思うですね。
 昨日、筑豊の支部長であります安藤さんが、昨日大和さんところに行くからというて残っておられた。そして此処へ何回も出て見えて、まあ、いろいろお届けがあった中に、「親先生私、昨日の月次祭の御理解を頂いて、してあのう、本当にどうしたらよかろうかというほどに、私の方でこんなおかげを頂いております。このおかげをもう、どう現したらよかろうかと私はあのお言葉、お話しに私も同感いたしました。」というような意味の事をお届けされましたが、お互いがおかげを受けてね、おるが、このおかげをどう現したらようろかと、それこそ、お役に立ちたい、お役に立ちたいの一念が、燃えてくるような信心を頂きませんとね、そこにある人が、なら、四神様が亡くなられたと同時に、有り難い、勿体ない、有り難いと思うておったものがなくなっていって、そして天で頭を打たれたかのようなおかげを落としをなさったという駒之介さんのお話しを、こう思い合わせてみてもです、信心の喜びというものは生きた喜びでなからなきゃならない。
 それはどんな場合でも喜べれる信心です。生きた信心の喜びというのは、只、自分の都合よう、撫でさすりされる喜びだけではなくて、叩かれる時でも喜べれる信心なんです。いうならば、ね、そういう信心が私は、育っていかなければね、ね。そこにいうならば、神様の願いが成就するだけではなくて、私共の願いも又成就する。
 本当の意味での、あいよかけよの生活。いわゆる、合楽世界に住める事ができるおかげが頂けると思うんです。
 今日は天で頭を打つまいと思うけれど、というところをいわば聞いて頂いたわけですけれども、まあ、それこそ天で頭を打つ事はあるまいと思えるほどしのね、まあ、いうならばおかげも頂きたい。そしてそこから、はあ、ここからが、それこそ、はてどうしたらよかろうかという思いが募るような、信心にならなければおかげを落とす事になるぞ、というふうに頂いて下さったらよいと思います、ね。
 神様が願うておられる、ね。例えば、なら、ここの修行生の方達なんかの場合は特にね、神様が願い続けておられる、ね。それこそこの、恋成就に相成るようにと、ねそれが、そういう思いから離れるような事であったらね、神様の、いうなら片思いにすぎないような事になったら、いうなら、神様にがっかりさせるような事であっては相すまんという事であります。
 私共の願いだけが、我情が我欲が満たされる、どうぞ健康でありますように、どうぞ商売が繁盛致しますようにと、いったような願いからね。
 私にかけられる神様の願いが成就致しますようにといっような願いが、本当に出来るような信心を頂いていきたいと思うですね。どうぞ。